2004年 07月 28日
感謝の気持ち。 |
今日、尊敬する知り合いの方から、久々に電話がかかってきた。
いつものやさしい声にやさしい言葉。
電話からでも愛がたくさん伝わってくる感じ。
彼女は先月かな、日本に数週間ほど(だったかな)
帰っていて、”内観”というのをやってこられたそうだ。
内観とは、これまで生きてきた人生の中で、人からしてもらったこと、人にしていただいたことを数日間の間、ひたすら思い出し、感謝するというもの。
あまりくわしくないけど、そんな感じだ。
で、実際にやってこられたのでどうだったかきいてみたところ、
こうおっしゃっていた。
ー子供をお腹に宿ったときから、子供たちがどんなにたくさんのことをしてくれたか思い出したのよ。自分が何をしてあげたかではないの。子供たちがどんなにたくさんのことをしてくれたかということなのー
わたしはちょっと混乱してしまった。自分が何をしてあげたかではなくて、お腹の赤ちゃんになにをしてもらったかってこと??
すごく意外だった。
ちょっと考えると、3人の子供たちがわたしのお腹にいたときいったいわたしに何をしてくれたんだろうと思った。
それより先に、わたしは彼らにはなんにもしてあげられなかったと思った。
いま振り返っても、2回の妊娠を経て、いったいなにをしてあげられたのだろうか。
胎教も興味なんてなかったし、お腹に話しかけてあげもしなかった。ダンナもそういうことするひとではなかったし。
なんだかもっといろいろしてあげられた、もっとたくさん喜んであげられた、もっとたくさん話しかけてあげられた。
そう思うと、自分が許せなくて泣けてしまった。
それでも、そんなわたしにでも、子供たちはなにかしてくれていたのだろうか・・・。
いまのわたしにはまだわからない。思い出せない。
ほかにもいろいろとお話しして、電話を切った後も、
あれこれ考えてしまった。
わたしがいままでだれかにしてもらったこと。
両親になにをしてもらっただろう・・・。
兄になにをしてもらっただろう・・・。
友達になにをしてもらっただろう・・・。
親戚になにをしてもらっただろう・・・。
まったく知らない人になにをしてもらっただろう・・・。
考えれば考えるほど、いつもたくさんなにかをしてもらっていた。
すごいこと、ちょっとしたこと、たくさんある。
両親にいままでしてもらったこと、やまほどある。
でも自分が両親にしてあげたことってなんだろうって思うと
なんだか思い出せない。
両親に対してものすごい感謝の気持ちがわきでてきた。
産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。
ずいぶんと生意気な子だったけど、育ててくれてありがとう。
勝手に育ったような顔していてごめんね。
お父さんとお母さんがいなければ、ここまで生きてこなかった。
ほんとうに子供を育てていて思う。
ちょっと目を離したすきに危険なできごとはいっぱいで、
親はいつも目を子供から離せない。
勝手に育ってきたようで、ちゃんと守っていてくれたんだろうなって思う。
これから両親になにができるのだろう。
もう遠く離れてすぐに会えなくて、孫の顔すらすぐにみせてあげられない。
こんな親不孝でごめんなさい・・・。
そう思うとほんとにつらい。
でもいつも感謝しています。その気持ちは伝えていくつもり。
それしかできないから。
お父さんとお母さんが健康で、毎日平和に穏やかに過ごしてくれれば、それでいい。
そんなことを考えていた。
そして、妊婦だったわたしを思う。
なにをしていたか、考えた。
ダンナに対しての怒りが湧いてくる。どうして、お腹に話しかけてくれたりしなかったの?どうしてもっと喜んでくれなかったの?
うちのダンナはいいダンナだけど、子供のことに関しては興味が薄いというか、あまり関心がないときがあって、
そして、感情でつっぱしるわたしと違って、感情をあまり出さないときがある。
だから、妊婦のとき、きっとさみしかったんだなと思った。
もっと赤ちゃんのことについて話したりしたかった。
もっといっしょに喜んでほしかった。
お腹が大きくてつらいとき、いっしょにゆっくりと歩いてほしかった。
だいじょぶっていたわってほしかった。
そんな感情があふれてとまらなかった。
そして、わたしだって、自分のことでせいいっぱいで赤ちゃんになにもしてあげなかったことがくやしくて情けなくて許せなかった。
でもね、
いっぱいおこってみた。くやしいって思ってみた。
そんな思いを手放した。
あのときは、あのときで、一生懸命だったよ。
大変だった。つらかった。わたし、よくやっていた。
そんなふうに思えたら楽になった。
いいよ、許してあげて。って。
さっきの電話で内観のあとに、最近、双子の女の子のほうの扱いに困っているという話しをした。
3歳半にもなるのに、どこへいくにもべたべたとくっついてきて、いうこともきかず、とにかく甘えん坊で大変だと・・・。
したらこういってくださった。
ーいいじゃない。いまのうちよ。あとどれくらいそうしていると思う?だいすきだいすきって思いっきり抱きしめてやりなさい。そうしたらそのうちやめてーって逃げ出すときがくるわよ。
いまのわたしは、だっこ、だっこしてってこられると、またか・・・と思ってしまう。きっとそんな思いが娘に伝わっているのだろう。
いまのうちなんだから、いやがるまでだっこしてあげればいいのか、いやがるまで抱きしめてあげればいいのか・・・、なるほどと思った。
いまはまだ、透明なへその緒がつながっていて、それがぷちんときれる日まで、いつまでも抱っこしてあげようじゃない。
いつまでもべたべたしてあげようじゃないの。
ブログを書きながらもなんだか涙がとまらなかった。
今日はどうしたのかな。
これも浄化のひとつなのかもしれない。
こういうときは、どんどん思い出したりして、どんどん泣くのがいい。
涙といっしょに、許せない気持ちや、怒りや、そんな気持ちがながれて、
あとからくるのは感謝の気持ち。
ありがとうという言葉。
いままで生きてきて、だれかがいつもたすけてくれた。
そんなひとコマひとコマが、わたしを支え、わたしをつくりあげてきた。
勝手にいきてきたわけじゃない。
いま、ここに生かされているということ。
もっと感謝していこう。
すべての出来事が偶然なんかではなくて、必然的に起こってきたこと。
ひとつでもかけていたら、いまのわたしはいない。
ありがとう。
いままでかかわってくれたひとにありがとう。
これからかかわっていくであろうひとにありがとう。
これを読んでくれたひとありがとう。
いつものやさしい声にやさしい言葉。
電話からでも愛がたくさん伝わってくる感じ。
彼女は先月かな、日本に数週間ほど(だったかな)
帰っていて、”内観”というのをやってこられたそうだ。
内観とは、これまで生きてきた人生の中で、人からしてもらったこと、人にしていただいたことを数日間の間、ひたすら思い出し、感謝するというもの。
あまりくわしくないけど、そんな感じだ。
で、実際にやってこられたのでどうだったかきいてみたところ、
こうおっしゃっていた。
ー子供をお腹に宿ったときから、子供たちがどんなにたくさんのことをしてくれたか思い出したのよ。自分が何をしてあげたかではないの。子供たちがどんなにたくさんのことをしてくれたかということなのー
わたしはちょっと混乱してしまった。自分が何をしてあげたかではなくて、お腹の赤ちゃんになにをしてもらったかってこと??
すごく意外だった。
ちょっと考えると、3人の子供たちがわたしのお腹にいたときいったいわたしに何をしてくれたんだろうと思った。
それより先に、わたしは彼らにはなんにもしてあげられなかったと思った。
いま振り返っても、2回の妊娠を経て、いったいなにをしてあげられたのだろうか。
胎教も興味なんてなかったし、お腹に話しかけてあげもしなかった。ダンナもそういうことするひとではなかったし。
なんだかもっといろいろしてあげられた、もっとたくさん喜んであげられた、もっとたくさん話しかけてあげられた。
そう思うと、自分が許せなくて泣けてしまった。
それでも、そんなわたしにでも、子供たちはなにかしてくれていたのだろうか・・・。
いまのわたしにはまだわからない。思い出せない。
ほかにもいろいろとお話しして、電話を切った後も、
あれこれ考えてしまった。
わたしがいままでだれかにしてもらったこと。
両親になにをしてもらっただろう・・・。
兄になにをしてもらっただろう・・・。
友達になにをしてもらっただろう・・・。
親戚になにをしてもらっただろう・・・。
まったく知らない人になにをしてもらっただろう・・・。
考えれば考えるほど、いつもたくさんなにかをしてもらっていた。
すごいこと、ちょっとしたこと、たくさんある。
両親にいままでしてもらったこと、やまほどある。
でも自分が両親にしてあげたことってなんだろうって思うと
なんだか思い出せない。
両親に対してものすごい感謝の気持ちがわきでてきた。
産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。
ずいぶんと生意気な子だったけど、育ててくれてありがとう。
勝手に育ったような顔していてごめんね。
お父さんとお母さんがいなければ、ここまで生きてこなかった。
ほんとうに子供を育てていて思う。
ちょっと目を離したすきに危険なできごとはいっぱいで、
親はいつも目を子供から離せない。
勝手に育ってきたようで、ちゃんと守っていてくれたんだろうなって思う。
これから両親になにができるのだろう。
もう遠く離れてすぐに会えなくて、孫の顔すらすぐにみせてあげられない。
こんな親不孝でごめんなさい・・・。
そう思うとほんとにつらい。
でもいつも感謝しています。その気持ちは伝えていくつもり。
それしかできないから。
お父さんとお母さんが健康で、毎日平和に穏やかに過ごしてくれれば、それでいい。
そんなことを考えていた。
そして、妊婦だったわたしを思う。
なにをしていたか、考えた。
ダンナに対しての怒りが湧いてくる。どうして、お腹に話しかけてくれたりしなかったの?どうしてもっと喜んでくれなかったの?
うちのダンナはいいダンナだけど、子供のことに関しては興味が薄いというか、あまり関心がないときがあって、
そして、感情でつっぱしるわたしと違って、感情をあまり出さないときがある。
だから、妊婦のとき、きっとさみしかったんだなと思った。
もっと赤ちゃんのことについて話したりしたかった。
もっといっしょに喜んでほしかった。
お腹が大きくてつらいとき、いっしょにゆっくりと歩いてほしかった。
だいじょぶっていたわってほしかった。
そんな感情があふれてとまらなかった。
そして、わたしだって、自分のことでせいいっぱいで赤ちゃんになにもしてあげなかったことがくやしくて情けなくて許せなかった。
でもね、
いっぱいおこってみた。くやしいって思ってみた。
そんな思いを手放した。
あのときは、あのときで、一生懸命だったよ。
大変だった。つらかった。わたし、よくやっていた。
そんなふうに思えたら楽になった。
いいよ、許してあげて。って。
さっきの電話で内観のあとに、最近、双子の女の子のほうの扱いに困っているという話しをした。
3歳半にもなるのに、どこへいくにもべたべたとくっついてきて、いうこともきかず、とにかく甘えん坊で大変だと・・・。
したらこういってくださった。
ーいいじゃない。いまのうちよ。あとどれくらいそうしていると思う?だいすきだいすきって思いっきり抱きしめてやりなさい。そうしたらそのうちやめてーって逃げ出すときがくるわよ。
いまのわたしは、だっこ、だっこしてってこられると、またか・・・と思ってしまう。きっとそんな思いが娘に伝わっているのだろう。
いまのうちなんだから、いやがるまでだっこしてあげればいいのか、いやがるまで抱きしめてあげればいいのか・・・、なるほどと思った。
いまはまだ、透明なへその緒がつながっていて、それがぷちんときれる日まで、いつまでも抱っこしてあげようじゃない。
いつまでもべたべたしてあげようじゃないの。
ブログを書きながらもなんだか涙がとまらなかった。
今日はどうしたのかな。
これも浄化のひとつなのかもしれない。
こういうときは、どんどん思い出したりして、どんどん泣くのがいい。
涙といっしょに、許せない気持ちや、怒りや、そんな気持ちがながれて、
あとからくるのは感謝の気持ち。
ありがとうという言葉。
いままで生きてきて、だれかがいつもたすけてくれた。
そんなひとコマひとコマが、わたしを支え、わたしをつくりあげてきた。
勝手にいきてきたわけじゃない。
いま、ここに生かされているということ。
もっと感謝していこう。
すべての出来事が偶然なんかではなくて、必然的に起こってきたこと。
ひとつでもかけていたら、いまのわたしはいない。
ありがとう。
いままでかかわってくれたひとにありがとう。
これからかかわっていくであろうひとにありがとう。
これを読んでくれたひとありがとう。
by chikyutotomoni
| 2004-07-28 15:43
| こころのこと